札幌酒精歴史館


創業期【設立・創業への道のり】

 昭和初期の北海道では農業の豊作に加え水産関連も豊漁で、それに伴い酒類の消費が増大して異常な不足現象が生じておりました。こうした状況の中、当時の道内メーカーによる焼酎生産量は本道消費量の半分に満たないものであったことを踏まえて当社創立の立役者である金子朔太郎(後の当社会長)は当時道内には生産過剰で捨てられる大量の馬鈴薯や澱粉粕があることを知ったことから、これを焼酎原料として使用することに着目しました。これは、原料を本州からの輸送に頼っていた当時としては原価を下げるばかりでなく本道の農業振興にも大きく役立つものであるとの確信から、道央に新規の焼酎製造所を設けることを決断させる要因となりました。

 その後、焼酎製造免許取得への紆余曲折を経て、当時北海道の清酒業界で最も有力であった日本清酒(株)及び小林酒造(株)ら3者による新設会社として昭和8年10月の設立総会をもって「札幌焼酎株式会社」が創立され、いよいよ工場の建設へと移りましたが降雪間近の11月下旬からの工事着工となり、当時、付近には民家もほとんどなく、石狩湾からの風雪をまともに受け、建設資材などがまたたく間に雪に埋もれ、雪の中から資材を掘り出しながら作業を進めるという難工事でありました。

 昭和9年5月20日札幌焼酎(株)第一号の蒸留酒が生産された記念すべき日でした。関係者一同歓喜の瞬間です。しかし、蒸留に携わった技術陣にとっては、この喜びも束の間。この記念すべき第一号酒は期待に反し製品と呼ぶには程遠い劣悪品だったのを知り一転、敗北感に襲われました。もっとも当時の焼酎業界関係者の間では良質の焼酎が生産されるには少なくとも三年の歳月を要すると言われていたのですが…。こうした苦杯に屈することなく早速翌日から技術陣全員の試行錯誤が繰り返されました。

 幸い発寒川を隔てて北海道立工業試験場があり、当時、醸造技術の権威であった技師らからの細部にわたる適切な助言指導を受けながら、さらなる検討を経過したある日、もろみの醗酵状態を見回っていた工場長から突然「もろみの泡が踊っている」という歓声があがりました。この「泡が踊る」というのは、もろみの醗酵状態が良くなると仕込桶の底部からもろみの泡が液表面にブツブツと飛び出す現象で、こうした状況こそが常に理想として求めていたもろみの姿であったからでした。その結果、同年秋に開催された「酒類品評会」において名だたる名門メーカーを押さえて操業開始からわずか四ヶ月あまりの短期間にも関わらず優秀賞受賞という快挙に業界関係者をアッと驚かせたのでした。